昭和時代、1970年代に少年達はどんなものに影響を受け、どんな生活を送っていたのでしょう。 地方の一少年の一例として、1970年代、昭和の夏を過ごした私の思い出を語ってみたいと思います。
あなたにとっても、あるある体験と懐かしいなぁと感じて頂けたら嬉しい限りです。
違う時代に子供時代を過ごした人にも、そんな時代もあったんだなぁ〜と思っていただけるかどうか…。
さあ、いまからタイムスリップしますよ!
エアコンが故障したら、暑すぎて気分は70年代の昭和の夏にタイムスリップしたようだ
東北地方ではエアコンがない家はまだ沢山あります。私の実家もエアコンがありません。
実家の人達は「エアコン」という発想さえありません。扇風機です。
いま、関東以南にお住まいで、家に「エアコンなんて必要ありません。」という感覚で暮らしている方はいらっしゃいますか?
元来、エアコンはけっして体に良くはありませんが、エアコンを使用されない方は、熱中症には十分気をつけてください。
猛暑の中、部屋のエアコンが故障してしまいました。部屋が散らかりすぎて、修理屋さんを部屋に入れられません。
もう今年はエアコンなしじゃ!
エアコンなしで暮らすとなったら、気分は70年代の昭和の夏にタイムスリップです。
70年代の小学生の夏がどんなだったか振り返ってみましょう。
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ゴジラ映画とまんが祭り
1学期の終業式の朝、小学校の校門の近くに、映画館の割引券を配る人が現れます。
夏休みのゴジラ映画と東映まんが祭りは70年代の子供達の楽しみでした。
私の住む街では、なぜだか『東宝』も『東映』も、同じ映画館でやっていました。
ゴジラ映画では自分が生まれる前の本多猪四郎監督、円谷英二特技監督のコンビの作品を大画面で見る事が出来たのは幸福でした。
本多猪四郎監督、円谷英二特技監督のコンビのゴジラ映画は1960年代の映画でしたが『東宝チャンピオンまつり』のなかにリバイバル作品として組み込まれていて、70年年代に作られたゴジラ映画と一緒に、春夏冬の休みに 公開されていました。
『チャンピオンまつり』時代に作られた『ゴジラ対メガロ』などの低予算映画と、60年代の大作としてのゴジラ映画をかわるがわる組むので、子供ながらにその違いが分かってしまうのでした。
それでもやっぱり子供、ジェットジャガーも大好きでしたwww
『東映まんが祭り』では『マジンガーZ 対 デビルマン』とか、映画でしか観られない共演作品があったりして、小学生の私を興奮させました。
まだ、『ドラエもん』や『クレヨンしんちゃん』などの劇場版シリーズが始まる前だったと思います。
木曜スペシャルとUFO
70年代の昭和の夏といえばテレビ番組、『木曜スペシャルのUFO特集!』「タラリ〜タラタラリー〜」です。 矢追純一さんが大活躍していた時代です。
完全に信じていました。
真夏の夜に近所のガキ達で集まって、公園の広場で 輪になって星空を見上げ宇宙人と交信を試みました。「ベントラ ベントラ ???」
コレ、宇宙語ですwww
「UFOが来ると磁場が揺れるんだぞ」というのを本で読んだ私が、その時開発した『UFO探知機』。
作り方は、牛乳ビンの真ん中に糸に結び付けた磁石をぶら下げる。
これで完成‼︎コレを窓辺に置いておくと、UFOが接近して磁場が揺れると、我が渾身の『UFO探知機』が「カララン コロロン」と音を立てる〜‼︎ ハズだったんですけどね〜。
市内地区対抗少年野球大会(防犯野球大会)
私が小学生時代住んでいた街では、市内地区対抗少年野球大会なるものが夏休み中に行われていました。
子供達が自主的に朝の4時〜5時にみんなの家を回りながら集まって、中学生、小学生で毎朝、大会まで練習をするのです。
地域の子供達が集まり、その地域の父兄が監督を務める事により、夏休みの少年犯罪防止の役目も果たしていました。
少年野球大会の哀しい思い出
チームは中学生、小学生の混合なのですが、私はチーム内の小学生の同学年中では割と上手な方だったと思うのですが、大会1回戦の、すでに負けそうな終盤、私を含めた補欠の小学三年生3人に、お情けの代打出場の場面がやって来ました。
しかし代打で出場出来たのは、私を除いた2人だけ。私は試合に出場出来ずに試合は負けました。
泣き虫だった私は試合に出られなかったのが悔しくて悲しくて翌日も泣いていました。
その日、隣のお兄ちゃんと、うちの母親が話をしているのを聞いてしまいました。
代打出場出来た2人のお母さんは地区の「親子会」の活動に熱心なので、仕方なかったという話。
ウチの親は共稼ぎなのもあったか苦手だったのか、地区の親子会には殆ど不参加状態。
今考えれば、大人の考えとして仕方なかったかもしれません。
そしてもうひとつ知りたくなかった事が…。
実は私はそのチームに選手登録すらされていなかったのです。それを知った時、私はわんわん泣きました。
母に作ってもらった「小」と書かれたゼッケンもすべて無駄に思えて…。
もしも、タイムスリップ出来たら「泣くな!男だろ。」と言った後、抱きしめてあげたいです。
いまとなっては懐かし70年代の昭和の夏の思い出です。
この話、映画に出来ないかなぁ。
ON砲からOH砲へ
70年代と言えば、『野球は巨人』で、ジャイアンツのV9の後半に位置する時代です。
残念ながら、私にはV9の記憶がありません。
V9の最後の年が小学1年生で、野球に興味を持つ直前でした。
なので、ON砲の時代の記憶がありません。
長嶋選手の記憶は、『ど根性ガエル』のお話で、南先生が長嶋選手と顔がそっくりで、長嶋選手の代わりに試合に出場し、まぐれでホームランを打って、長嶋ファンの、入院中の少年を喜ばせる。という話です。
あとは、『侍ジャイアンツ』で、長嶋さんに殴られて番場蛮が吹っ飛び、ロッカールームのコンクリートの壁を突き破るというシーン!
とにかく長嶋さんは凄いのです。
そんな長嶋さんが監督になった初年、背番号は90番。
私は親に買ってもらったジャンバーは、90番が胸に付いていました。
しかし、巨人はその年最下位。
よく年、巨人は張本勲選手をトレードで向かい入れました。
張本勲さんは、ただの「喝!」のおじさんではないのですよ。
時代が違って入れば、イチローにタイマンはれる男だったのです。(守備はイチローさんの足元にも及びません。)
ON砲の代わりにOH砲が完成すると、不調で田淵幸一選手にホームランキングの座を明け渡した王貞治選手も調子を取り戻しました。
V9の残りカスと呼ばれた、平均年齢が30歳を超えた長嶋ジャイアンツは、最下位の翌年に、セントラルリーグ優勝を果たしました。
この頃、いちばん熱心に野球を見ていたなぁ。
同世代の方は分かると思いますが、いちばんいい所で、テレビ中継は終わりに、あとは、ラジオを風呂場に持って行って、風呂に入りながら試合終了まで聴く。というのが、私と父のスタイルでした。
末次選手の逆転満塁サヨナラホームランも、そうやって聴いたのです。
今じゃ巨人戦も、地上波放送すらないのですから、時代は変わりましたね。
あ、そうだ、これは昭和の夏の思い出の記事だということを忘れてました。
すいません。
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