あなたは、ジャンボ尾崎がどれほど凄かったか体感している世代ですか?
現在、74歳を迎えた尾崎将司選手ですが、もう若いゴルファーのみなさんは「ジャンボ尾崎」といっても、名前は知っていても今ひとつピンと来ないのかもしれませんね。
ジャンボ尾崎がいなければ現在の日本のゴルフ界は違ったものになっていたでしょう。
そして、今のジャパンゴルフツアーに、全盛期の尾崎将司がタイムスリップしていてくれたらなぁと思うオールドファンの私です。
しかし、そんな、魔神のように強かったジャンボ尾崎選手にも1980年代にはスランプの時代があったことを知っているファンの方もいると思います。
ジャンボ尾崎選手のスランプ時代を覚えていますか?
両手を使うスポーツには、スランプがあるのだと、私の高校の剣道部の先生が言っていました。
「スランプ」で有名なのは、世界のホームラン王の、王貞治選手。
あの世界の王さんも、長いペナントレースの最中にぱたっとホームランを打てなくなる時がありました。
尾崎選手のスランプ時代を思い出してみれば、両手のコンビネーションが大事なゴルフスイングでも同じようにスランプがあるのだなぁと剣道の先生の言葉を思い出しました。
飛距離が出るゴルファーほど、曲がれば大トラブルになる可能性がありますから、尾崎選手には悪循環でした。
尾崎選手本人の弁によりますと、腰痛と暴飲暴食がスランプの原因だったようです。(横田真一プロのYouTubeチャンネルで尾崎将司プロ本人がおっしゃっています。)
プロゴルファーの“ジャン尾崎”こと尾崎将司選手。本当に強かったですね。
ジャンボこと尾崎将司選手がいなかったら日本のゴルフ界の発展はもう少し遅れていたかもしてませんね。
もちろん私もファンです。
昭和の終わりから平成に掛けての日本のゴルフ界の『AON時代』、毎週末のテレビ中継はワクワクしながら見たものです。
そして海外4大メジャーの試合を寝不足になりながら見る。早起きして見る。それが生活の習慣になっていました。
いつからでしょうか。そんな習慣が私の生活から消えていきました。
やはり尾崎選手、青木選手、中嶋選手らが、日本ゴルフ界の第一線から退き始めたも要因のひとつかと思います。
2018年、青木功さんは日本ゴルフツアー機構の会長、中嶋常幸さんは、シニアツアーに比重を置き、レギュラーツアーは数試合に出題という状況。
そしてジャンボ尾崎はというと、レギュラーツアー7試合に出場し、途中棄権が4回を含め、一度も予選突破がありませんでした。
私には、魔神のように強かった尾崎選手が活躍していた時代が、ついこの間のような気分だったのですが…。
歳をとると時の流れが本当に早いです。
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『ジャンボ尾崎』のニックネームのインパクトからか小学生の私もなぜか尾崎選手を知っていました。(たしか『ジャンボ尾崎のミニゴルフ』というゲームというかオモチャがありました。コンピューターゲームではなく、ゴルフクラブを持った人形にボールを打たせて競技するオモチャです。)
コマーシャルなどで無意識に存在を把握したのでしょう。 そんなだから、ゴルフに興味を持てば自然にジャンボ尾崎選手ファンです。
両親はゴルフをしなかったので、生のゴルフと接する事が出来なかった中1の私は、近所の質屋さんで、どこのメーカーなのか分からない6番アイアンを手に入れ、黒のラッカーでクラブのバックフェイスに“Jumbo ProModel”と書き込んでいました。(ジャンボ兄弟のクラブ、MTNIIIが発売される前の話です)
社会人になって、自分の給料でクラブを変える年齢になったころ、ジャンボ尾崎選手はたしか、J’sメタルの時代だったはず。
買えるはずありません。(自分の技術的にです)。
ジャンボ尾崎選手のプレイを初めてのテレビで見たのは、1980年の太平洋マスターズ。
1980年の太平洋マスターズでは、鈴木規夫選手とのプレーオフ、尾崎選手の林の中からグリーンオンを狙って放ったショットは、テレビカメラも追えないほどのグリーンオーバー。
日も暮れる中ギブアップ。鈴木規夫選手の大会2連覇となりました。
尾崎選手は9番アイアンと6番アイアンを間違えたのではないかという記事を後で読んだ記憶がありますが、事の真相は分かりません。
1980年は青木功選手が全米オープンでジャック・二クラス選手と熱戦の末2位となった年でもあります。
NHKで熱戦を振り返る番組を見て、青木選手のファンにもなりました。
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ゴルフ競技は他の競技と違って、直接的な人対人の対戦ではなくて、人は最初にコースを相手にしてスコアで他の選手と争うので、アンチが出来にくいスポーツかもしれませんね。
ジャンボ尾崎選手がスランプになってしまった、80年代の始まり
翌年の81年からテレビでゴルフ中継を追いかけ始めたのですが、いつまでたってもジャンボ尾崎選手が出てこない!
どうしたジャンボ!
尾崎選手はこの年大スランプで、シード権ギリギリの28位(この頃のシード権は賞金ランク30位まで)。
倉本昌弘選手がシーズン途中からデビューし、いきなり6勝し、尾崎選手の不在?の日本のゴルフツアーの盛り上がりをカバーしました。
シードを失いそうになったそのオフには、当時の2大ゴルフ雑誌の
- 『週刊アサヒゴルフ』
- 『週刊ゴルフダイジェスト』
が、こぞって、(確か同じ週に)ジャンボ尾崎復活応援号なる特集を組んで、その週の雑誌の中身全部が尾崎将司という週がありました。
雑誌社も裏で繋がってんのか?と思うほどでした。
今、手に入れることはできるでしょうか?
手に入れば貴重な雑誌です。
私が尾崎選手のファンになった年が尾崎選手の最悪の年だったという…。
しかし、絶不調の尾崎選手のファンになって分かった事は、プロゴルフトーナメントはプレーを見なくても楽しめるという事です。
新聞で初日の成績表を見て、「お!67か!」とか「トップ10内にいるか」とか、不調だからこそ一喜一憂出来る楽しさ。
80年代当時の新聞では成績が悪くて上位表示されていなくても、青木、尾崎のスコアと順位は記事のお尻に必ず付け加えられていました。
予選2日目もまだ新聞の成績がでる範囲内にいれば、翌日のテレビ中継に出てくる可能性に期待が膨らみます。
中継内に入ってくれば、やっと見れました、という感動。
終了後の月曜の朝刊で賞金ランキングをチェックして、いくつ上がったか、下がったかを確認してまた一喜一憂する。
そして雑誌「週刊ゴルフダイジェスト」のレギュラー記事、ジプシー後藤の『ジャンボ尾崎が復活する日』をチェックする。
ゴルフトーナメントを見ても何が楽しいのか分からないという方は、ごひいきの選手を1人作ってみてください。
今はネットもあるので、選手の情報も入りやすいですし。
不調の時が応援して楽しかった
尾崎選手はこの年から4・5年ランキング中位を往復し、試行錯誤の日々を過ごしたようです。ジャンボファンとしては応援の対象としては、この頃が一番応援しがいがありました。
その後、徐々に調子を上げていった頃のAO対決は見応えあったなぁ〜。
今はなき『関東オープン』。覚えていらっしゃる方いますか。
YouTubeに何方かが動画を上げているので、関東オープンのAO対決見てみてください。青木選手にライバル心むき出しの尾崎選手!
尾崎将司プロ、第二の全盛期に向けて復活が見えた!
1986年、尾崎選手はランキング2位になり、海外メジャーにも挑戦できる位置まで自分自身を盛り返していきました。
この頃の尾崎選手は本当にイキイキしていました。
尾崎選手の脳はこの時期、ドーパミンで満たされていたのでしょうね。(青木、尾崎、中嶋のAON+Kの倉本の活躍が重なり合った楽しい日々でした)
その後の第2次ジャンボ黄金時代の到来。 皆さんも知っての通り、凄かった。
スランプの時、ファンながらも、こんな大復活の時代がくるなんて、正直思っていませんでした。
2度の全盛期を作った男。甲子園を含めたら3度の全盛期ですね。
時に批判される事もある尾崎選手ですが、彼と同じ事が何人の人間にできるでしょうか? 私には出来ない。
2021年、限りなく引退に近ずいているジャンボ尾崎選手ですが、ファンならそれを見届けつつ、ありがとうと、労いの言葉を贈りたいものです。
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